LOGIN消えた三階の窓を、六人はしばらく見上げていた。
雨は弱まる気配を見せず、門へ絡みついた鎖を銀色に濡らしている。校舎の輪郭は闇の中へ沈み、窓だけが幾つもの黒い眼窩のように並んでいた。先ほど制服姿の少女が立っていた場所には、もう何もない。
澪の耳には、硝子を爪で掻いた高い音が残っていた。
「今の、見たよね」
奈々香が囁いた。
声が震えている。配信用の小型カメラを鞄から取り出していたが、構えた手は定まらず、映像には校舎と地面が交互に映っているだろう。
「人影は見た」
朔が答えた。
「人影って……あれ、澄花だった」
「顔は確認できてない」
「でも、赤い紐を――」
「決めつけるな」
朔は短く言い、閉じた門へ近づいた。鎖と南京錠を一度ずつ引き、工具を持ってきた悠斗へ視線を送る。
悠斗は工具箱から大型の切断具を出し、鎖へ刃を噛ませた。両腕へ力を込める。金属が軋み、雨に濡れた持ち手が滑る。
「切れない」
「さっきまで地面に落ちてた鎖でしょう」
美月が懐中電灯で照らす。
「錆びてるのは表面だけだ。中は新しい」
悠斗は息を切らしながら刃を外した。
「誰かが交換したんだ。遠隔で巻き上げる仕掛けも作れる。南京錠だって、俺たちが見てない間に――」
「地面から勝手に跳ねたように見えたけど」
奈々香の言葉に、悠斗は口を閉じた。
朔が校舎へ光を向ける。
「外へ出る方法を探すにしても、中へ入らないと道具も通信手段もない。全員で動く。離れるな」
「本当に入るの?」
「門の内側で朝を待つよりはましだ」
美月が救急鞄を肩へ掛け直した。
「少なくとも、屋根はある」
誰も賛成とは言わなかった。
それでも六人は、濡れた石畳を校舎へ向かって歩き始めた。
正面玄関のガラス戸は、中央から大きく割れていた。鋭い破片が枠へ残り、懐中電灯の光を受けて濡れた歯のように光る。足元には古い硝子片と枯れ葉が重なり、雨水が細い筋を作って内部へ流れ込んでいた。
朔が先に身を屈め、割れた箇所から中を照らした。
「段差がある。足を上げろ」
澪は言われた通りに脚を上げた。跨ぐ瞬間、コートの裾が硝子へ触れ、乾いた音を立てる。朔の手が肘の下へ添えられ、身体がふらつく前に支えられた。
玄関の内側には、腐った木と湿った土の匂いがこもっていた。
左右へ並ぶ下駄箱は扉が外れ、内部に泥と枯れ葉が積もっている。蜘蛛の巣が梁から垂れ、雨風に揺れていた。壁にはかつての校内標語が残っている。
あいさつのできる明るい学校。
文字の一部へ黒い黴が広がり、「明るい」の箇所だけが読めなくなっていた。
透が録音機の感度を上げる。
「ここから先、喋る前に名前を言って」
「どうして」
「誰の声か後で分ける」
奈々香が苦い顔をした。
「後で聞き返すつもり?」
「何かあれば」
「何かって」
「俺たち以外の声」
透はそれだけ言い、ヘッドフォンを耳へ当てた。
朔の懐中電灯が床で止まった。
「足跡がある」
泥の上に、小さな靴跡が並んでいた。
つま先が丸く、甲の部分に一本の横線がある。女子生徒用の白い上履きによくある形だった。
跡は新しい。縁が崩れておらず、溜まった水がまだ微かに震えている。
澪は自分たちの靴を見た。全員、外履きのままだ。上履きを持ってきた者はいない。
「さっきの女の子?」
奈々香が声を潜める。
「誰かが先に入った証拠だ」
悠斗はすぐに言った。
「女の上履きを履いて歩けば、このくらい残せる」
「裸足で山道を来て、ここで履き替えたの?」
美月が問う。
「車で裏まで来たのかもしれない」
「裏門は崩れてる。八年前に確認したでしょう」
「八年も経ってる。道くらいできる」
悠斗の言葉は、誰かを納得させるより、自分の恐怖を押し戻すためのものに聞こえた。
足跡は玄関から廊下へ入り、階段の方角へ続いている。
一つ。
また一つ。
歩幅は狭く、走った跡ではない。急ぐことも迷うこともなく、校内を知り尽くした者が歩いたように、真っ直ぐ階段へ向かっていた。
六人はその後を追った。
廊下の床板は、踏むたびに湿った音を立てた。壁へ掛けられた卒業生の写真はほとんど外されていたが、一枚だけ額に残っている。雨漏りで顔の部分が滲み、並んだ生徒全員が目を伏せているように見えた。
澪が通り過ぎた瞬間、額の内側で何かが動いた。
振り返る。
写真の端に、小さな白い顔があった気がした。
胸の奥で、八年前の記憶が濡れた紙のようにめくれた。あの夜も、同じ廊下の壁に古い集合写真が掛かっていた。澄花は笑いながら、写っている人数を数えた。けれど途中で声を止め、もう一度だけ最初から数え直した。なぜ止まったのか、澪は訊かなかった。今になって、その沈黙だけが異様に鮮明だった。
「澪」
前を行く朔が呼ぶ。
「何でもない」
答えた声が、自分のものではないほど弱い。
天井のスピーカーから、突然、ざらついた音が流れた。
全員の足が止まる。
ざああ、と雨に似た雑音。
次いで、金属を爪で擦るような高い音が混じった。
透がヘッドフォンを外し、天井を見上げる。
「録ってる」
雑音の奥で、少女が息を吸った。
『返したいものを持って、三階二年七組へ来てください』
澪の背中へ冷たい汗が流れた。
声は廊下の奥へ反響し、少し遅れて後方からも聞こえた。遠く離れたスピーカーが順番に同じ文を吐き出している。
『返したいものを持って――』
途中で音が途切れた。
沈黙のあと、六人の足元から、かすかな足音が響いた。
ぎし。
ぎし。
誰も動いていない。
それなのに、先ほど自分たちが歩いた音だけが、一拍遅れて廊下を進んでくる。
奈々香が朔の袖を掴んだ。
「今の、何」
「反響じゃない」
透が答えた。
「録音されて、返されてる」
朔は近くの教室から机を一つ引き出した。天板へ靴を掛け、スピーカーの真下へ立つ。
「押さえろ」
悠斗と美月が机の脚を支える。
朔は工具で天井板の端を持ち上げた。湿気を吸った板が崩れ、白い粉が肩へ落ちる。内部へ手を入れ、何かを引き出した。
掌ほどの黒い機器だった。
短いアンテナと小型電池。裏側には磁石がつき、スピーカーの配線へ細い線で接続されている。
「送信機だ」
朔は机から降り、手袋を着けて機器を確認した。
「市販品を改造してる。電池式。録音した音声を遠隔で流せる」
悠斗の顔へ、露骨な安堵が浮かんだ。
「ほら。やっぱり人間の仕掛けだ」
笑いに似た息を漏らし、周囲を見回す。
「脅かすために誰かが先回りして置いた。それだけだ。メールも足跡も全部同じだろ」
「それだけじゃない」
透は機器を覗き込んだ。
「この容量じゃ、今の音声をあの明瞭さで流せない。圧縮すれば声がもっと潰れる」
「別に本体があるんだろ」
「なら、これは何のためにある」
悠斗は答えられなかった。
透は録音機を操作し、直前の音を再生した。
少女の声。
その背後に、床の軋み。
六人が立ち止まる前の足音が、僅かに遅れて重なっている。
「送信機に集音用のマイクはない」
透が言う。
「なのに、俺たちの音が戻ってくる。別の場所で誰かが聞いてる。校内のどこかにマイクがあるか、別の方法で拾ってる」
「誰かが今も中にいるってこと?」
澪の問いに、透は頷かなかった。
「少なくとも、音は今も聞かれてる」
その言葉のあと、スピーカーから澪の呼吸が流れた。
吸って。
吐く。
ほんの少し前の自分の息。
澪は口元を押さえた。
同じ音が廊下の奥へ渡っていく。
奈々香の衣擦れ。
美月が救急鞄の留め具へ触れる音。
悠斗が舌打ちした音。
最後に、朔の声が再生された。
『離れるな』
誰も今その言葉を発していない。
それでも声は、階段の上から降ってきた。
朔は送信機の電池を抜いた。
雑音が止まる。
しかし、上階から聞こえる遅れた足音だけは消えなかった。
ぎし。
ぎし。
誰かが先に階段を上っている。
上履きの濡れた跡も、最初の踊り場へ続いていた。
「行くぞ」
朔が先頭に立つ。
階段は中央がたわみ、手摺には赤錆が浮いていた。六人は一段ずつ足元を確かめながら上がる。
澪は四番目だった。
朔、美月、悠斗。その後ろを歩き、背後には奈々香と透がいる。
二階へ向かう踊り場に、大きな窓があった。硝子は割れずに残り、雨の筋が無数に流れている。
外は暗い杉林。
その中に、制服姿の少女が映っていた。
澪は足を止めた。
窓の像は、階段の途中に立っている。
濡れた紺色の制服。長い黒髪。顔は俯き、前髪に隠れて見えない。
澪の背後にいるはずの奈々香は赤い雨具を着ている。透は黒いパーカーだ。誰の姿とも一致しない。
「どうしたの」
奈々香が後ろから訊いた。
澪は振り返った。
奈々香と透しかいない。
もう一度、窓を見る。
制服姿の少女は、先ほどより近づいていた。
澪のすぐ後ろ。
硝子の中では、濡れた髪の先が澪の肩へ触れそうになっている。
少女がゆっくり顔を上げた。
顔は暗く、目の位置だけが白い。
唇が動く。
声は聞こえない。
けれど、形は分かった。
逃げて。
「澪!」
朔の声が鋭く響いた。
腕を強く引かれ、身体が前へ倒れる。
直後、頭上で金属が裂けた。
古い照明器具が落下し、澪が立っていた場所へ叩きつけられる。
硝子管が砕け、白い破片が床を跳ねた。錆びた覆いが手摺へ当たり、甲高い音を立てて止まる。
奈々香が悲鳴を上げた。
朔は澪を胸元へ引き寄せたまま、片腕で頭を庇っていた。砕けた硝子がジャケットの肩へ降り、細かな粉が髪へついている。
「怪我は」
「ない……朔は?」
「平気だ」
澪の腕を掴む指は強い。声は落ち着いているのに、呼吸だけが少し速かった。
美月がすぐに戻り、二人の顔と手を確認する。
「切れてない?」
「大丈夫」
「動かないで。細かい硝子が服に入ってる」
美月が澪の肩を払い、朔のジャケットから破片を落とす。
悠斗は落ちた器具を懐中電灯で照らした。
「吊り具が切れてる」
天井から垂れた金属部分には、鋭い刃物で何度も刻んだ跡があった。錆びて自然に折れたのではない。あと僅かな振動で落ちるよう、細い箇所だけが意図的に残されていた。
「人為的だ」
朔は澪から手を離し、切断部を見上げた。
「誰かが俺たちの通る時刻を見て、最後を切った」
「じゃあ、やっぱり中にいる」
奈々香の声が裏返る。
「今も近くに」
透が床へ膝をつき、落ちた吊り具へ録音機のライトを当てた。
「血がついてる」
切断された金属の断面から、赤い雫が膨らんでいた。
一滴が落ち、砕けた硝子の上へ弾ける。
錆の色ではない。
新しい血だった。
鉄の匂いが、湿った空気の中へ広がる。
美月が手袋を着け、綿棒で触れる。赤は鮮やかに染みた。
「乾いてない」
「上に誰かいるのか」
悠斗が天井を照らす。
穴の奥には梁と配線しか見えない。人が隠れられる隙間はない。
それでも、血は一滴ずつ切断面から滲み出してくる。
澪は窓を見た。
制服姿の少女は消えていた。
雨に濡れた自分たち六人だけが映っている。
少女は落下を知っていた。
逃げろと伝えた。
ならば、昨夜、扉の向こうで澪を呼んだ声と同じものなのか。
呼び寄せようとする者と、逃がそうとする者。
どちらが澄花なのか。
「先へ進む」
朔が言った。
美月が顔を上げる。
「罠があるのに?」
「戻るにも同じ階段を通る。ここで止まれば、狙われたままだ」
「三階へ行けば安全だって根拠は?」
「ない」
朔は血の滴る吊り具を見た。
「だが、仕掛けた人間は俺たちを二年七組へ誘導してる。目的がある間は、全員をここで殺すつもりじゃない」
「澪は今、死にかけた」
美月の声が冷える。
「予定外の誰かを黙らせたいのかもしれない」
その言葉に、六人の視線が一瞬だけ交わった。
誰が、何を知っているのか。
誰が、八年前に嘘をついたのか。
澪は朔の横顔を見た。
彼は天井を見上げたまま、何も言わない。
再び階段を上り始める。
二階。
三階。
上履きの足跡は途切れず続き、三階の廊下へ向きを変えた。
そこだけ、空気がさらに冷たかった。
教室の札はほとんど落ちていたが、廊下の突き当たりに一枚だけ残っている。
二年七組。
濡れた足跡は、その扉の前で消えていた。
閉じた教室の横にある黒板へ、白いものが浮かび上がった。
最初は黴の染みに見えた。
それが細い線となり、誰も触れていない黒板の上を走る。
きい、と爪で引っ掻くような音。
文字が一つずつ現れる。
嘘をついた人から、席を失います。
奈々香が息を呑んだ。
「席を失うって……」
問いに答える者はいない。
黒板の下へ、白い粉が落ちていた。指で書いた跡はない。文字だけが内側から染み出すように浮かんでいる。
朔が二年七組の取っ手へ手を伸ばす。
触れる前に、扉の向こうで椅子を引く音がした。
一脚。
続いて、もう一脚。
六回、同じ音が重なる。
最後に、少し間を置いて七回目が鳴った。
扉が、内側からゆっくり開き始めた。
管理通路は、理科準備室の裏側へ近づくほど狭くなった。 古い給水管と新しい電線が頭上で絡み、ところどころ壁から剥き出しの鉄骨が突き出している。五人は身体を横へ傾けながら、一列になって進んだ。 先頭の朔が足を止める。「この先だ」 懐中電灯の光が、コンクリート壁の小さな表示札を照らした。 理科準備室。 文字を見ただけで、澪の呼吸が浅くなった。 胸の奥へ冷たい指を差し込まれたように、息が途中で止まる。 八年前。 濡れた木の扉。 爪で何度も表面を引っかく音。『澪ちゃん、開けて』 澄花の声。 取っ手へ両手を掛けた自分。 そして、背後から腕を掴んだ誰か。 耳元へ落ちた低い男の声。『もう助からない』「澪」 朔の声で、記憶が切れた。 目の前に彼の肩がある。「止まるか」「止まらない」 答えるまでに一度、唾を飲み込んだ。「行く」 朔は何も言わず、歩幅を少しだけ落とした。 管理通路の終わりに、点検口があった。 内側から押すと、薄い金属板が動く。その向こうは理科準備室へ続く小さな物置だった。五人は順番に這い出し、埃の積もった床へ降りる。 澪が最初に見たのは、扉だった。 廊下側へ通じる木製の扉。 表面の下半分が黒く焦げている。 焼けた木は波打ち、取っ手の周囲には熱で膨らんだ塗膜が固まっていた。 八年前の火災警報。 白い煙。 鼻の奥へ、存在しない焦げ臭さが戻ってくる。「焼け跡は古い」 悠斗が低く言った。「事件のときのままだ」 美月が扉へ近づく。「でも、鍵は違う」 錠前だけが新しかった。 銀色の金属はほとんど錆びておらず、焦げた木製扉へ無理に埋め込まれている。螺子にも新しい傷が残り、数年以内に交換されたことは明らかだった。「こっちからは開かない」 朔が取っ手を回す。 内側のつまみすら動かなかった。「管理通路から入れるのに、わざわざ廊下側を新しい鍵で閉じてる」 美月が眉を寄せた。「誰かを閉じ込めるため?」「あるいは、外から入らせないため」 朔は工具を出した。 細い金属片を錠前の隙間へ差し込み、内部の位置を探る。二度、三度と角度を変える。 かちり。 小さな音。 錠が外れた。 扉は数センチだけ開き、廊下の暗闇が見えた。 その隙間から、爪で木を掻く音が聞こえた。 きい。 澪の身体が固まる。
第二犠牲者の名は、黒く塗り潰されたままだった。 監視室の机に置かれた進行表。その紙面を覆う黒いインクは、何度光を当てても下の文字を透かさない。 澪は指先で紙の端を押さえたまま、息を詰めていた。 すぐ背後で聞こえた椅子を引く音は、もう消えている。 振り返っても、監視室には五人しかいなかった。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 そして澪。 十数台のモニターから漏れる青白い光が、全員の顔を不健康な色へ染めている。機械の冷却ファンが低く唸り、壁内を走る新しい配線の表示灯が一定の間隔で瞬いていた。 右端の画面。 図面には存在しない教室。 制服姿の少女は、先ほど引いた椅子の横へ立っている。 顔は見えない。 背を向けたまま、次に座る誰かを待っているようだった。「台本、全部見せて」 美月が言った。 朔が進行表を机の中央へ移す。「触るなら手袋を」「分かってる」 美月は薄い手袋をつけ、透の死亡が記された頁を慎重にめくった。 次の頁には、七不思議ごとの準備項目が並んでいる。 必要機材。 想定反応。 対象者。 誘導文。 その書き方に、悠斗の目が止まった。「待て」 身を乗り出す。「ここ」 指したのは、十三段目について書かれた箇所だった。 〈異常を否定する者を先行させ、残りの反応を撮影する〉 短い一文。 悠斗の顔から血の気が引いた。「これ……俺が書いた」「今夜?」 奈々香が訊く。「違う」 悠斗は首を振った。「八年前だ」 監視室が静かになった。「心霊研究会で、探索計画書を作った。どの場所をどう回るか、誰が先に入るか。動画として面白くなる順番も決めた。そのとき使った言い方だ」「同じ文章?」 美月が問う。「ほぼ同じ」 悠斗は進行表をめくった。 音楽室。 〈音の発生源を確認する者を先に室内へ入れる〉 舞踊室。 〈最後尾の人物だけ遅れているように見せる〉 放送室。 〈実際の声と録音を混ぜ、どこから聞こえているか判断できなくする〉 悠斗の指が止まる。「これも」「全部、昔の計画書に?」「そのままじゃない。でも言葉の癖が同じだ」 朔が一冊の黒いファイルを開いた。「八年前の計画書は残ってるのか」「警察に提出したはずだ」「複製は?」「部室のパソコンにあった」「誰でも見られた?」「部員なら
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す
『殺されたからです』 死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。 奈々香が息を呑む。 美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。 澪だけは、その場から動けなかった。 声があまりにも透だった。 低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。 けれど透は死んでいる。 二年七組へ安置したまま。 澪自身、その身体を担架に乗せた。『俺は聞いてしまった』 校内放送が続く。 五人の呼吸が止まった。『八年前に消された音を』 ざらり、と雑音が混じる。 古いスピーカーの膜が震えている。『犯人は、ずっと一緒にいた』「止めろよ」 悠斗が天井を睨んだ。「誰だ。何がしたい!」 返事はない。 代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。 かあん。 余韻が消える。「放送室」 朔が言った。「発信元を確認する」「透のところへ戻るの?」 奈々香の声が震えた。「嫌ならここで待つか?」「一人では絶対に残らない」「なら五人で行く」 朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。 動きには淀みがない。 澪はその横顔を見た。 頼りたい。 だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。 音響。 映像。 遠隔操作。 録音。 偽の映像。 朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。 五人は管理通路を戻った。 細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。 美月の病院。 奈々香の配信場所。 悠斗の会社。 澪の取材先。 そして、室内から撮影された朔。 奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。 朔も何も言わない。 校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。『ずっと……』 雑音。『近くに……』 また雑音。『見ていた』「細切れに聞かせるな」 悠斗が吐き捨てる。「意味を持たせたいだけだ」「そうかもしれない」 朔が答えた。「そうじゃなければ?」 美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。「確認するしかない」 二年七組の前へ着く。 まず、朔が設置した小型カメラを
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……